見習いデザイナー通信 その1「きっかけ_1」2005年05月10日
僕は現在都内某所、某デザイン会社に見習いデザイナー(のつもり)で勤務しています(平たく言えばフリーター)この「見習いデザイナー通信」は僕がプロ(定義:デザインで飯を食う)のデザイナーになるまでの過程を皆様にお知らせするものです。なお、現在のデザイン会社との契約は(2005年)9月末日までです。そのため、恐らく、デザイン業界の就職活動の模様などもお伝えできると思います。

まずはデザイナーを志したきっかけをお話しします。

現在、勤務しているデザイン会社とはかなり衝撃的な出会いをしました。04年の2月の事です。それは僕の人生にとって大きなターニングポイントといえます。
そのころ僕は都内の大学の建築学科に属し、建築デザインを学んでいました。来年(つまり今年)学科を卒業したら、学科のみんなと同じ様に大学院に進むのだろうと(建築学科の大学院進学率はかなり高い)ただ漠然と考えていました。大学院卒業後は恐らく建築事務所かゼネコンに就職するんだろうなぁと人ごとのように、将来を考えていました。
2月のある日、僕は友人にフットサルに呼ばれ、五反田に行く予定でした。しかし、僕はどう聞き違えたのか、なぜか高円寺に約束の時間に到着してしまいました。間違いに気がついた僕は、もう遅れるのは確実だしまぁのんびり行くかと、五反田までの乗換のどこかの駅(おそらく新宿)構内の本屋にぶらりとはいりました。そこでまっさきに目に飛び込んで来たある一冊の雑誌に僕は人生を変えられてしまったのです。

 

見習いデザイナー通信 その2「きっかけ_2」2005年05月11日
僕はたった一冊の薄い雑誌の、そのまた付録に将来を変えられてしまいました。そしてその力に身を任せてしまいました。しかも何の確証も保証もないのに。
その雑誌は2004年2月15日号の「ブルータス」、特集は「大人の会社見学」でした。表紙のしりあがり寿氏の漫画もなかなか良い味を出していました。2月と言えば就職活動の季節です。来年度4年生になる学生は、たとえ大学院に行こうと思ってはいても、少しは就職という事も考えます。おまけにその頃僕は大学院入学の面接に落選し、一般入試の応募締め切りまで少々の時間の余裕がありました。また、建築デザインという分野自体に3年間のさまざまな事を通して多くの疑問が湧いてきていて、このまま建築を続けるのかどうか悩んでいたところでした。正直なところこのまま続けても自分の中での盛り上がりは一向に望めないように思えました。
そういう気持ちが続いている中で、「大人の会社見学」という甘いフレーズは僕に小粋でお洒落な就職活動を想像させるには十分すぎました。よっしゃいったるで。目指せ汐留、お台場、六本木。鼻息荒く手に取って、素早くページをめくったところ、うっかり開いてしまったそのページ。まさしく「そのとき時代が動いた」のです。

 

見習いデザイナー通信 その3「きっかけ_3」2005年05月25日
勢いあまって開いたそのページには、まるでデパートの宝石売り場のガラスケースのような世界が広がっていました。そこには魅力的な企業のロゴマークが所狭しと陳列されていたのです。実際は紙に印刷されただけの二次元のマークが、僕にはつまみあげてみたくなるような宝石に見えました。その一つ一つは見ているだけで、そのマークが持つ世界に吸い込まれてしまいそうなものばかりでした。
その中でも特に目を引いたのは、ソールバスという人がデザインしたアメリカの通信会社AT&Tのマークでした。地球をイメージさせるそのマークは、単に通信会社であるという事だけではなく、グローバルな企業規模や、会社の強い意思までも感じさせました。それにも関わらず、全く冷たい感じはせず、温かみを持ったやさしい形をしていました。
このマークを見た瞬間に、ほとんど僕は自分の進む道を変える決意をしていました。それほど強い衝撃をこのシンボルから受けました。その日から、日本でCI(コーポレートアイデンティティ)や、企業などのブランドを創造するブランディングデザインに特化している会社を探し始めました。そして数ある会社の中から二社に白羽の矢をたて、連絡を取ってみることにしたのです。

 

見習いデザイナー通信 その4「就職活動」2005年05月29日
かくして白羽の矢を立てた、二社への就職活動が始まりました。
とはいえ、二社とも新卒の募集もなければ、経験者の採用情報さえもホームページには掲載されていません。
しかし、成功率は五分五分であれど、募集されていない所へアルバイトを希望して入り込んだ経験がある僕は、二社あればどちらかは引っかかるだろうと、かなり楽観的に考えていました。

アプローチの仕方は至ってシンプルなものにしました。eメールで自分の名前、所属(当時は学校)、なぜその会社に入りたいのかという事を簡単に書いて送信しました。

二、三日後に二社ともから返信がありました。
A社からは「作品集や自己アピールがあれば送付してください」との返事でした。しかし作品集なんか作った事なかったので、一時保留。
B社(ランドーアソシエイツ)の方はというと、「今、あるプロジェクトのヘルプを探している」との返事。つまりはアルバイトですが、まだ後一年は学生だし、いまからバイトとしてなんでもいいから将来につながる経験を積みたいと考えた僕は、B社の担当の方と面接をする方向で話を進めました。

面接には一応作品集らしきものを持参しました。学校の課題や、友人のバンドのフライヤー、Tシャツのデザインとかです。しかし、良い見せ方も知らなかったので、ただファイルに詰め込んだだけで、見る方はあまり魅力を感じなかったかもしれません。やはり人にものを見せるときは、それなりに考えないと伝わらないようでした。とにかくガチガチの緊張の中、自分の意思だけは伝えようと話をしました。

面接ではクリエイティブ部門のアシスタントとしての採用ではなく、マーケティング部門のヘルプ、特に秋に出る本の編集作業の担当だという事を言われました。つまり基本的にデザインはできないという事です。躊躇しましたが、それでも、もしかしたらデザイン作業に関われるかもしれない、とまた楽観的に考えた僕はとにかくこの会社に入り込む事だけを考えて、条件を飲みました。条件は週3回8時間勤務で、日給◯◯◯◯円、交通費は別途支給。デザイン会社のアルバイトならこれが相場だと思います。あまり良い条件ではありませんでしたが、ともかくお金が発生するだけラッキーでした。

面接からひと月ぐらいの保留期間を経て、アルバイトとしての採用の返事が来ました。この時点で、僕は他の就職先を探す事をやめていたので、就職戦線からはすでに置いていかれていました。何も先が見えない中、後には引けない状況を自ら作り出してしまいました。しかし兎に角、第一希望の会社に入り込む事に、まずは成功したのです。

 

見習いデザイナー通信 その5「雑用王子」2005年06月03日
バイトを始めて、最初にやっていた事はオフィス内の整理整頓です。棚の中に鎮座していた不要なスライド群や、膨大な雑誌などを少しずつ片付けていきました。それが終わると、秋の出版に向けた画像の収集。それ以外にも頼まれればパネルばりに、シュレッダー、買い出し、お茶だし、電話番までやりました。かなりの雑用王子っぷりです。それらの仕事は今も変わらずやっていますが。

それでも、オフィス内の雰囲気とか、デザインが完成に向かう過程を間近で見れたり、会議やデザインのクリット(デザイン検討の場)に顔を出すことはとても刺激的で、大学では分からない現場というものを体感できました。どんな雑用でも実際の仕事にどこかで繋がっていると思えば嬉しくて、興奮しきりだった事を覚えています。週三回は会社に行き、残りの日は大学の卒論を進めたりしていました。

(そういえば、今思い出した事ですが、本当の初期は週二回のみの勤務でした。でも学校は授業がほとんどないし、暇だったので週二回から三回に増やしてもらったのです。学生生活が終わりに近づいた頃には勝手に週五回、フルに出勤して、学生なんだか何なんだか自分でも良く分からず、周りの人には学生だという事も忘れられてしまっていました。今はまだ学生生活が終わってから二ヶ月しか経っていませんが、自分の中ではもう一年くらい前に卒業していたような気さえします。)

一ヶ月ほど、純正雑用王子として働いていましたが、やっぱりそれだけじゃ少し物足りなくなってきました。その当時、とある大型ショッピングモールのシンボルデザイン開発が行われていて、クリエィティブ部門の人にそれに参加させてもらえないかという事を相談しました。
すんなりとはいかず、マーケティングの仕事に支障をきたさない程度で、「やりたいならやってみれば?」と、なんとかデザインに参加できる事になりました。(つづく)

 

見習いデザイナー通信 その6「二足のわらじ」2005年06月23日
お願いして、なんとかデザイン作業に関われる事になったものの、まだまだ色々な問題がありました。

当時、四年生で授業が少ないと言えど学生の身分なので、週に一、二回程度は学校に行かなくてはなりませんでした。週三回の勤務というのは実はそこから出て来た数字でもありました。また実際問題、建築学科の四年生は10月に卒業論文、1月に卒業計画(設計)の提出が義務づけられているので、気持ちは完全にグラフィックデザインの方向にシフトしているつもりでも、あと二つ残っている建築学生最大の課題の事を考えるとどうも吹っ切れずあいまいな状況が続きました。

また週三回、月水金の勤務なので、関わっているプロジェクトのクリットが火曜とかにあると参加できず、水曜に出社すると全体のデザインの大きな方向性が前回とだいぶ変わっていたりして、その脈絡がうまく汲み取れず、その次回以降、表面的な関わりにとどまってしまう事もありました。

学生がインターンなどで短期集中でガツッと社会勉強をするのがはやっているのは、ある程度の連続した時間の中で仕事の流れを一通り経験できるからだと思います。逆に僕みたいに小間切れの時間の中での経験は、バイトレベルに留まってしまう可能性が高いので、同じ様な事を考えている人は時間と都合の許す限り、どっぷり行っといた方が良いと思います。

10月くらいまで、うまく履きこなせない二足のわらじを履いていましたが、卒業論文を無事提出して少し暇になり、悶々としていた僕は会社との週三回の契約を無視して、頼まれてもいないのに週五回勝手に出社するという暴挙にでました。毎日出る事で仕事の流れが見えて来て、ようやくちゃんとしたデザインの経験ができるようになってきました。

しかし、卒業が近づいてくるにつれ、また新たな不安が沸き上がってきました。
「フリーター」の五文字とデザイナーとしての「お先真っ暗」説、どちらも僕にとっては悩ましい限りのスペシャルな不安でした。(つづく)

 

見習いデザイナー通信 その7「迷走五十三次」2005年07月02日
四月にフリーターになりました。一月、二月、三月はそうとう悩みました。
今のバイト先のデザイナーになる事を決意して、アルバイトでもフリーターでも良いと就職活動も大学院試験も放棄してはみたものの、恥ずかしい話、卒業が近づいて来ると不安で胃が痛くなりました。
やっぱり一年浪人して大学院で建築やろうかなとか、どこでもいいから就職しちゃおうかなとか、山村で籠でも編んで暮らすか、それとも引きこもり?など固いはずの決意をぐらぐら揺らがして、色々考えてました。一月はそれに追い打ちをかける様に、卒業設計(自分で課題設定し、図面や模型を作る)の制作期間で、目の前の一向に進まないヘヴィな課題と、何も見えていない将来のヘヴィな問題のダブルパンチで、頭の中はほぼパニック。徹夜続きの中、半分、鬱のような状態になりました。

瀕死の状態で卒業設計は提出できたものの、ダメージは深く、自分の中にあった頼りないプライドとか自信はほとんど卒業設計に持ってかれました。それでも念願のニューヨーク旅行に行ったり、卒業設計の狂乱のあとを静かにゆっくり過ごしていたら、結局は自分がやりたい事はグラフィックのデザインなんだという事にゆっくりと再度固まっていきました。実力も実績もないけれど、僕がやるべき事はこれ以外にない!とようやく信じる事ができました。何故そのときそう信じられたのかははっきりしません。でも、本当にぶちのめされて、プライドも見栄も失って丸裸にされて、それで逆に物事や自分の思いの核心が少しは見える様になったのかも知れません。
再度決意した後は不安も薄くなり、何やらせいせいした気持ちで大学を卒業し、見習いデザイナーとして働くことを選択し、今はデザイナーになるために日々働いています。 (つづく)

 

見習いデザイナー通信 その8「正式採用!」2005年08月04日
本日、社長から10月からのデザイナー/正社員採用の正式内定が伝えられました!まだ二ヶ月先の事ですが、とても嬉しいです。デザイナーとして、社会人としてようやくスタートラインに着く事が出来ました。この先、今まで以上に大変な事があるとは思いますが、世の中を楽しくするデザイン、生活に根付いたデザインの創出を第一目標として、頑張っていきたいと思います。
最後になりましたが、皆さんには本当に感謝しています。皆さんの刺激なくして、今の僕はなかったと思います。今後ともよろしくお願い致します。

 

見習いデザイナー通信 完

 

※2016年4月追記※
日記上は唐突に採用になり完結となるのですが、見習い(バイト)期間は約1年半でした。
この時点でなぜ採用してもらえたのかを少し書くと、
①見習い期間中、ある企業のロゴが採用になった
②いろいろな方が自分を会社側に推してくれた
③小野があまりにもしつこかった(汗)
ことが大きいのではないかなと思います。

結果を出す、色々な方のお力を借り感謝する、粘り強く辛抱する、どれもデザインをする上で大切なことかと思います。ランドーアソシエイツは常に社内コンペで、デザイナー同士が案を競い合っている環境だったのもよかったと思います。プレゼンの場に案がのるまで半年、初めてロゴが採用になるまでは1年以上かかりました。あの頃のがむしゃらな自分に負けないようにしたいと思います。